テイザニストもろーの山歩き

山歩き歴50年、今は低山を中心に歩いています。

2010年08月

 僕はイングランドをもってして最高のリーグだとおもっている。
 なぜかというとそれは観念的なものだけれど、フットボールを始めたときコーチから「サッカー発祥の地イギリス(当時はまたイギリスとイングランドの違いがわからなかった)」を盛んに刷り込まれたことと、丁度その少し後にワールドカップでイングランドが優勝したこと、それからイングランド人ではないけれどリーグでジョージ・ベストが活躍したこと等々があるからだ。
 そして何としても三菱ダイアモンドサッカーの影響が大きい。
 だからイングランドの次に(時代的にも)ブンデスリーガがそれに次いで好きである。
 内田が入ったシャルケ04なんて、三菱ダイアモンドサッカーのイントロで映し出されるフィッシャーのオーバーヘッドのゴールに毎回うっとりしていたことを思い出す。

 その点、セリアAとかリーガ・エスパニョールにはあまり関心を持ったことがない。
 いっときやたらとセリアAがもてはやされて、世界最高のリーグなどと喧伝されたけれど、そのときだってイングランドが最高と信じて疑わなかった。
 もちろんセリアAのクラブを知らないわけではないし、プラティニがユベントスにいたときは少しは感心を持っていたし、選手だって少し古いけれどフィオレンティーナのアントニオーニなんて記憶に残る選手だ。

 でもそのぐらいだから、イングランドの場合はチャンピオン・シップやさらにその下にも興味があっても、イタリアでは1部のクラブでさえ昔からのビッグクラブか日本人選手のいるクラブしか頭に浮かんで来ない。
 
 だから日本代表の監督にイタリア人が就任決定と聞いてもなんだかピンと来ないのだ。
 なんだかこれまでの代表監督とは随分とかけ離れた、未知の世界からやって来るような気さえしてしまう。
 好い意味でも悪い意味でも、イタリアのサッカーかぁ…う~ん、てな気分になるのだ。
 もちろんこのザッケローニという人はイタリアでもディフェンシブではないようだけれど、でもほんとになんだかわからないのだ。
 セリアAのファンにならばよく知られている人なのだろうけれど…。

 イタリアというと世界でもいち早くフィジカル・コーチを採用して、アントニオーニみたいなのは別としても、とにかく体が大きくってタフで、悪く言えばラフなイメージがあるけれど、日本なんてその対極にあるから、ダイジョブかいななんておもってしまう。

 今、浦和のフィンケ氏の評判がよろしくない。
 そのひとつに日本の風土や気候、リーグの日程などを考慮に入れていない、とかなんとかというのがあるらしい(それがホントかどうかはわからない)。
 今度のイタリアのこの人はその点はダイジョブなのだろうか。

 日本を理解して結果を出してゆかないと、例えばアジアカップなど早々と敗退などしたらスポーツ紙に「ふザッケローニ」などと書かれそうで、今から心配している。
 もちろんこれ僕のイタリアに対する無知から来る杞憂なのだけれどね。

 細貝萌が日本代表に選出された。
 浦和を贔屓にしている自分が言うのだから少し身贔屓かもしれないけれど、代表選出が遅かった感さえある。
 南アフリカで代表になってもよかったのだ。
 
 もっともそんなことを言うと「他にもいるぞ、あれとこれと…」ということになって収拾がつかなくなってしまうのだけれど、でも細貝をボランチに起用したらけっこうおもしろいことになっていたのではないか、とあくまでも贔屓目だけでおもうのだった。

 ただ今度の代表というのは監督も決まっていなくって、それでなんで「強化試合」なのかよくわからない。しかも、今回の代表は誰が選出したのか今のところわからない。
 いずれにしても監督不在の代表では、何が変わったのか変わろうとしているのか、何を目指すのか目指そうとしているのか、明確にはならないだろう。
 とするとこの試合は強化じゃなくって顔見世、特に南アフリカ後の初めての代表戦で、本田やら川嶋やらを見たい人も少なくないだろうから「海外出張組顔見世興行」ということではないだろうか。

 まあそれでもいいや、ここはひとつ細貝頑張ってくれ。

 が、しかし…、その前に鹿島に勝たなきゃダメだよ。
 もうこのところ浦和にはかなりフラストレーションがたまっているのだ。
 Jリーグの黎明期のように、アマチュアが行きがかりでプロになってしまった時代だったら、何せ日本リーグでも最後の方では大したことなかったかんな、で済んだけれど、今はリーグ優勝も天皇杯優勝も、そしてACL優勝もしているクラブなのだ。
 それがなんだ、このところずっとの体たらく。

 湘南には勝ったけれど、全然信用していない。
 最下位のクラブを0点に抑えられないのだから。
 どんな形でもいい、今度鹿島に「勝てたら」少しは見直したいとおもう。
 そしてその要になっているのが細貝だとおもう。

 だから頼むぞ細貝、なのだ。

 先日、特急「あずさ」で到着する仕事上の知人を新宿駅まで迎えに行った。
 やたら暑い日で、日が落ちたというのに熱気が体にまとわり付いているようだった。
 そんな新宿駅の中央線ホームで到着の電車を待っていたら、にわかに30年以上前を思い出してしまった。
 急行アルプスだ。

 昔は、登山といえば夜行列車だった。
 そして新宿駅からアルプスや八ヶ岳方面へは急行アルプスだった。
 
 夏の新宿駅の夜は、急行アルプスを待つ登山客でごったがえしていたものだった。
 急行アルプスは1編成ではなく、52号だの54号だのがいろいろであり、アルプス広場にはそれぞれの列車のナンバーと出発時間の表示があって、それらには早い時間から長い列が出来ていたっけ。
 そのうち行列整理のためにワッペン作戦なんてのが始まって、電車を待つのにワッペンを付けさせられた。だから北アルプスの尾根を、国鉄のワッペンを付けて歩いている人がいたりした

 僕はこの夜行が苦手で、できれば乗りたくなかったのだけれど、先輩方は登山は夜行だ!と頑なに信じていたし、まあ何よりも当時のガイドブックが「夜行」を前提にして書かれていて、自然に夜行を使うことになったのだけれど、それにしても特に単独行での縦走を計画したときなどはつらかった。

 もう家を出るときからつらかった。
 テントやら食料やら雨具やらが詰まったザックは肩に食い込んだし、それを背負って新宿駅に行く間に汗だらけになって、駅の構内は益々暑くって、それだけでもうバテた。

 見送りもなく(昔は誰かが山へ行く、といえば見送りに行って差し入れなどしたのだ!)、ひとり電車に乗るのも寂しかった。
 このイヤイヤ感はずっと続いて、登山口に着いても「帰っちゃえば」なんて心の中に囁きかけられ、例えば表銀座縦走だったら合戦小屋ぐらいまで続いたものだ。

 ただそのうちに夜行も使うことがなくなっていった。
 先輩方は山から去って行ったし、僕も年齢を重ねてゆくうちに夜行はきつくなった。
 というよりも夜行を利用するような大きな縦走をしなくなったのだ。
 仕事も忙しくなって山は遠ざかるばかりだったし、たまに行くとしても経済的余裕が出来てきて、クルマを使って麓に宿泊して、ノンビリ山歩きをして、というそれ以前から比べれば「大名」のような山歩きに変わって行った。

 最後に急行アルプスを使ったのは、夏ではなくって正月登山で上高地へ入ったときだった。
 それ以来急行アルプスに乗らなくなって、あれだけお世話になったのに関心を持つこともなかった。
 だから急行アルプスが廃止になったのも知らなかったのだ。

 知人を待つ間に思い出してアルプス広場に行ってみたけれど、そこに登山客の姿があるわけもなかったし、時刻表を見たら、夏だというのに臨時さえないのだった。

 いろいろな意味で「アルプスは遠くになりにけり」の新宿駅中央線ホームであった。

 日本はお盆休暇真っ盛りなのだけれど、中国や韓国にはそれがないから日本が休んでいるときでも次々といろいろなリクエストが入ってくる。
 韓国関係では今週中が締め切りというのがあって、今日やっとそれを送信したところだ。
 
 しかしもうひとつ頭の痛い問題がある。
 今週の半ばになって中国企業の社長さん御一行が、山形へ行きたいという連絡をしてきたのだ。
 こちらは焦って訪問希望先の一応は責任者に電話したのだけれど、そこは16日まで休みなのだ。
 だから中国の社長さんが希望する17日は仕事が再開された日で、それで受け入れ態勢なんか出来ないのだ。しかもこの責任者というのが事なかれ主義者であるから、自分で判断しないし、さらにけっこう大物の訪問だというのにどうも経営トップに連絡するつもりはないらしい。
 休暇中のトップに電話できるほどの器でもないのだろう。

 昼頃着くから食事をするところを教えてくれ、と訪ねたら蕎麦屋ででも食事してきてくれだと。
 こちらが中国へ行った日ににゃあ昼間っから卓を回しての大盤振舞いされるというのにだ。

 こりゃ僕の立場はどうなる。
 オマエ、日本じゃ全く威力ないやつだな、と思われてしまうじゃなかろうか。

 それはともかく、まいったのは列車のキップだ。
 往路はともかく、帰路はお盆休暇帰りでどれもこれも満席だ。
 1泊ぐらいしてくれるなら何とかなるけれど、忙しくって山形だって日帰りなのだ。
 (だから最初まさか1日潰して山形までは行くまいとタカをくくっていたのであった)
 社長様御一行7名様をまさか自由席で立ちっ放しというわけにも行かないだろうからと、何とか入手したけれど、ああ、ヤレヤレ、一体どうなるんだろう。

 「指導標を眺めて鎖につかまって、石段を登ってゆけば登山ができ、それでいけなければ電話の厄介になるとすれば、登山はお山見物である」
 これは浦松佐美太郎著「たった一人の山」より「山のあぶなさ」の一節だ。
 日本登山界の黎明期に、スイス・アルプスを登っていたクライマーであり、登山が冒険の時代であったから、彼の頭の中では登山とは道なき岩を攀じるものだっただろう。だから道が開かれ、小屋が出来、穂高の岩が削られてステップが出来、梯子や鎖がかけられるのが耐えられなかったのだろう。
 そしてそうなったことにより、益々山の遭難が増えたことを憂いているのだ。
 
 あるいは高須茂著「日本山河誌」では、高須と「上高地三代目のヌシといわれる」木村殖との対談の中で、木村が「トクモト(トクゴウのことを彼は昔からこういっている)を越えなければ上高地に入れなかった時代はおかしな遭難はなかった」と言っている。

 つまりよく言われることだけれど、便利になることで「つまらぬ」遭難が増えたということだろう。
 
 僕はクライマーでもなく、それこそ浦松佐美太郎の言うところの「お山見物」人であるけれど(だから登山という言葉を使わずに山歩きと言っている)、それでも山を登るのにツアーというのがどうも解せない。まあツアーに参加して山を登るのもいいけれど、しかし登山はやはり基本は単独行だとおもう。
 つまり団体で登っていても、いざというときはひとりでも難局を打開しうる技量を持っていなければならないとおもっている(いた)。
 
 僕が若い頃の山仲間はみんな単独行が基本だった。
 だからみんなが集まって山に行くときも、ひとりになってもダイジョブなだけの装備は持っていた。
 ただしそうすると、団体装備と個人装備で荷物が重たくなるけれど、それが「山」だった。

 それから山歩き(登山)はアウトドアの最たるものだ。
 風雨の中、吹雪の中を行くのが普通のことだとおもわなければならない。
 あるいはそれを覚悟する、ということだ。

 昔のことを言ってもせんもないなけれど、若い頃の山行はアプローチに随分と時間がかかったものである。だから「大きな山へ来た」という実感があった。
 今は自分もそうなのだけれど、クルマを使ってかなり奥まで行くことが出来る。
 だから2,000mを超える山でも、ほんの裏山に登る程度で頂上に立てる場合だってある。
 だけど山の気象条件や地形は昔と変わっていないのだ。

 高尾山のような山でも登れば爽快だし、達成感が得られる。
 だからさらに高みを目指す気持ちがわいてきて、そしてそれでどんどん高い山に向かって気持ちも高まって行くのだろうけれど、しかし浦松佐美太郎も言っている。
 「足が丈夫なだけで頂上に立てたとしたら、それはお山見物だ」。
 今の山はとにかく足が丈夫な人ならわけなく頂上に立てるだろう。だけど山は危険と隣り合わせだということを認識し、そしてそれを乗り越えるだけの力量を持ってなければいけないのだ。
 たとえお山見物であっても、最低限必要なことではないだろうか。

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